10月 21, 2018

s0303

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信扫描序列号:s0303
写信日期:1993-05-24
写信地址:辽宁省沈阳市
受害日期:1942-1945
受害地址:黑龙江省牡丹江市
写信人:罗平凡(原名罗永年)
受害人:罗平凡等人
类别:其它、其他大屠杀(OT、OM)
细节:我原名叫罗永年现在叫罗平凡,1942年2月2日被日本宪兵队逮捕关在黑龙江省牡丹江市的监狱,并受酷刑。这次“侦星工作1230事件”中被日伪高院判处判刑多人,其中有被判处死刑的。日本投降后,掌管监狱的关东军准备谋害全部被关押者,我和另外几人是在一个日本人的帮助下才逃出来的,其它被关押的人都被关东军集体枪杀了。

 

敬爱的童增同志:
您好!
关于到北京日本大使馆专向日本人宣讲索赔的中日文发言稿,我原来写了一个发言稿(草稿)找到哈尔滨我外甥,他原是黑龙江省大学日语专业毕业,现在黑龙江省新闻出版进出口公司经济师经理(原名日文翻译)他并找到黑大研究生导师王教授(日语导师)帮我修改并改写成现在的中、日文发言版,随信寄去,请审阅。如果需要到北京日本大使馆去讲时,请来信随时可带底稿到北京专讲。
关于寄来的名单我先找到王群力(辽大)初步商定由他写信给名单上的38人,然后携带书面材料到沈阳总领事馆去当面交涉,并请日本政府给以明确答复。
其后我又找到郝曼华同志,他已按您名单上圈点人名发出邀请信,准备成立[联]络站。在99中召开的当时主席有郝曼华、罗平凡、郁其文(郁其文和李坤影是夫妇)史宏华四人一致同意成立联络站,因为出席人员不全,没有形成书面的材料,只决定郁其文同志,想找一些过去在日伪时期受害的高层领导,同时如果联终站成立时想找一些记者参加由他负责。关于经费方面想找一些知名演员赵本山等或些企业家,募集一些资金,这只是初步想法,能否实现尚难拟料,初步我[这]由受害者这些人每人拿个十元八元的以备日常的急需。王群力同志现在不常到班上去,他的筹办一个公司,接到信晚,没来得及参加会,基本同意成立联络站,他没有时间准备到锦西找他父亲来办这件事,同时最近他可能到北京公出,可能到你那里去。徐秀同志基本在上班,所以一直没联络上。
同时我又找到市体委招待所的王书刚同志,他的地点在市中心集合比较方便,所以联络点想设在他那里,核心组开会没问题,全体集合借房间,需要和领导商量,不知领导能否同意。最近核心组没有开会,全体会议还没召开过。

关于索赔问题还需要和你商量:
将来准备用记者采访记,或者新闻发布会,或者向市内各区张贴布告等形式开展工作,看看将来来办理登记的人能有多少,就我们现在接触人中社会上对此反映比较冷漠,因为很久以前的事,认为大多与本身无关,认为索赔无望,比如上回我提我的难友王际春已于7月去世,他爱人赵更才是沈医士教授儿子在北京“人民中国”(日文)杂志社,原来准备替王际春索赔,现在放弃了,不要求索赔,怕影响他们和他的工作,直接家属尚且如此可想一般。
这里我想有两个问题:
其一,按报纸所公布那样:按我们计算受害者赔偿应为1,800亿美元,不管我们征集到多少受害者,最终我们要这1,800亿美元。现在看来这个愿望好是好,也很宏伟,但希望我看感受等于0。因为中国政府不能出面为我们交涉,我们又没有一个团体出面和日本交涉,虽然报载您和一些同志出席过国际会议,见到过原日本首相海部俊树,恐怕都没有明确答复,恐怕日本政府决不承认受害者赔债,当然我们发动我们这些受害者纷纷向日本政府提出抗议,发动签名运动,这签名运动是义务的,还是算受害者一分子呢?即我有一亿名的签名运动,对日本政府又能起多大作用呢?日本政府照样相应不理,又奈他何?即我、我们有千条妙计,日本政府就是不拿钱,还是徒然。我倒不是悲欢论者,我是说我们得有具体措施,促使日本政府表态,承认不承认赔偿?赔偿多少?有个具体目标。比我们抱着1800亿美元目标,永远实现不了,望“洋”兴叹。
其二,有人说中国政府态度是:战争赔偿不要了,受害者赔偿你们自己要,要来就要来,要不来就拉倒。是这样的吗?据沈阳领事馆根岸领事说:全面赔偿根本不可能,因为中国老百姓受害时间长、受害面积广,无法搞清楚具体受害者,对个别的受害者如慰安妇或较大的案件日本政府从道义上倒可以考虑,如韩国政府那样,同时即使将来日本政府能赔偿,也只能日本政府与中国政府协商来解决,也决不能直接给老百姓,同时我们征集到的受害者再多,也远远不能达到当初受害者那么多,因为当年受害者已为数不多,子女家属知道当时情况也为数不多,还有的愿意办申诉赔偿的,不为现在尚存的或者子女家属知情的又愿意申请的有多少报多少,对日本要求赔偿更现实些更实际些,不然等这些人都不在了,对谁赔偿呢?赔偿了又有什么意义呢,又会给日本方面一个借口,我们这些受害者没有一个团体,中国政府又不出头,我看来就得那样:“要来就要来,要不来就拉倒”我是受害者本人,受苦最深又是幸存者,这种心情您是理解的,您是我们这些人的带头人,有话就得和您讲,当然您的苦衷也不少,愿我们共同努力在最短时间实现它。
祝您身体健康,工作顺利,万事如意!

罗平凡
1993年5月24日

向日本国要求受害赔偿的申诉书

日本国诸位先生、女士:
您们好!
我是一名日本侵华期间受害者之一。我以自己在日本侵华期间亲身经历过的悲惨遭遇,控诉日本侵略者的种种罪行,并申诉要求日本政府给予受害赔偿。
我原名叫罗永年(现名罗平凡)于1939年入伪中央师道训练所学习。同年9月,赴日本教育祝察,在东京小石川区御殿场部ハ・-ト(公寓)参加了由在日本东京都帝国大学留学的于尔金和刘世恒所组织的“抗日大联合”。
1941年12月30日,日本宪兵队在中国大逮捕,制造了闻名的“侦星工作1230事件”。我在1942年2月2日被辽宁省辽阳市日本宪兵队逮捕。捕后,经奉天(现在的沈阳市)日本宪兵队本部,押送到哈尔滨日本宪兵队本部,关在哈尔滨市道里分监拘押死囚的“独居监”(俗称小号)。关押期间倍受酷刑。
当时,正是东北滴水成冰的严寒季节,囚室无任何铺盖,只能栖身于冰冷刺骨的水泥地上。监狱的地上爬满了白色的饿虱,我们衣不遮体,食不果腹,由于冻饿虱咬,浑身长满疮疥,奇痛难耐,脓血遍身,惨不能生,当年很少有人活着出来。
1942年,“侦星工作1230事件”的人被哈尔滨伪高等法院判决:
王鸿恩:黑龙江省伪呼兰县协和会长  死刑
刘世恒:日本东京帝国大学,黑龙江省开拓厅  死刑
以上二人被绞死在道里分监。
无期徒刑三人,有15年有期徒刑5人,10年有期徒刑11人,7年有期徒刑1人。
这些人被关押在哈尔滨秀场监狱,不仅失去了人身自由,而且镣铐加身,每天吃不饱穿不暖,做着牛马般的苦役,直至日本投降。
1945年8月15日日本政府宣布无条件投降时,接管了哈尔滨监狱的关东军下令:除日本人外,中国人一律不准进入监狱。
当时,监狱里关押着1千多名政治犯,由于接管监狱的关东军没有接到释放被关押着的命令,不敢放人,但是又怕这些人暴动,遂生毒计:并称有土匪突袭监狱,诱逼关押者越狱逃跑。然后开枪射击,能打死就打死,逃跑的也不负释放责任。(当时黑龙江省牡丹江市监狱就是这样枪杀了所有政治犯)。
8月15日晚,关东军荷枪实弹,在监舍内外巡逻。当时,监狱里有位叫浅野虎一郎的看守长是个富有正义感的日本军人。他同情中国政治犯,在监狱的日本人中也颇有威望。浅野看守长告诉我们:“如果关东军让你们突围逃跑,我来接你们,要紧跟着我,千万别离开一步”。
8月16日早上,浅野先生以挖野菜为名,把我们9个人带到监狱大墙外,东边的树林子里。当时监狱大门口支着四挺机关枪,组成火力交叉网,整个监狱一片杀机。浅野先生说:“我现在以一个日本人的身份想法释放你们。这次战争时日本军阀挑起来的,日本人民是无辜的”。他环视着周围严密把守的关东军,知道不能让我们立刻逃走,只好又把我们重新领回监狱,但表示一定想办法帮我们逃出这人间地狱。
第二天由浅野先生出面同关东军交涉,愿意以一个日本人的身份释放我们,为保日本政府追究释放责任,他将以自己身家性命担保。
因为一次性释放人多目标大,怕关东军开枪阻劫,只能三三两两地分批逃出虎口。
从1942年初到日本投降,我们在监狱里遭受磨难三年之久,死里逃生,险遭杀害,从身体到精神,从皮肉到心灵,受到了残酷的摧残与伤害是无法用语言来形容的,为此我们这些日本侵略军的受害者坚决要求日本政府给予500万元的受害赔偿。
日本侵略者曾使中国生灵涂炭,千千万万无辜百姓惨遭杀害,这是任何赔偿都无法抵偿和弥补的!
我们相信,所有具有正义感的日本人民一定能赞成我们的合理要求,得道多助,失道寡助,正义的日本人民会重道重理!
谢谢诸位!

日本侵华期间受害者:罗永年(现名罗平凡)
199 年 月 日

日本国に被害者に対する賠償を要求する訴え

日本国の先生方、女[士]方:
私は日本が中国を侵略した期間の被害者の一人です。私は日本か中国を侵略した期間の身を以って経験した悲惨な遭過を持って、日本侵略者のさまざまな罪悪を訴えようと思います。そして日本政府に被害者に賠償を要求するの訴えようと申し上げます。私の元の名前は羅永年と言い、今の名前は羅平凡と言って、東京小石川区御殿場アパートで日本東京帝国大学に留学している于給と刘世恒が組織された抗日大連合に参加しまた
1941年12月30日,日本憲兵隊は中国で大逮捕を行い聞く人を驚かす「偵星工作1230事件」を釀し出しました。1942年2月2日に私は遼寧省遼陽市の日本憲兵隊本部へ逮捕され、日本憲兵隊の奉天(現在の沈陽市)本部を経てハルピン憲兵隊本部へ護送されました。ハルピン市道里分監獄の死刑拘禁する「独居監(給名は小号と云う)に監禁されました。監禁期間にことのほか残虐な刑罰を受けました。
その時は中国の東此の真冬でしたなる水を凍る非常に寒い季節でした獄舍にはいかなる審査がくて冷たくてはだを刺すようなコンクリートの地面に身を寄せていました。獄舍の地面に飢えた白風がたくさんいました。私にちには着物がぼろぼろになり、食べ物がお腹いっばい食べられなかったのです。寒さやひもじや虱に刺されたこともよろて体中に疥癬がでを痒くて痒くてたまらなかったのです。そして膿や血が出てむごたらしく生きられないようになりました。その当時独居監から生きたまま、出てきたものはごし少なかつたのです。
1942年、偽ハルピン高等裁判所は「偵星工作1230事件に対して判决されました。
王鴻恩 偽黒竜江省呼蘭県協合會長  死刑
刘世恒 日本東京帝国大学偽黒竜江省開拓庁  死刑
以上の二人はハルピン道里分監獄で絞首刑にされました。
それに無期懲役3人、15年の有期懲役、5人、10年有期懲役11人、7年有期懲役1人これら人人はハルピン香坊監獄に拘禁されて人身の自由を失うばかリでなく手枷と足枷をはめていた。お胶いっばい食べられないし、着物も暖かくない毒日でした。それに牛馬のように苦役に服していました。このような生活は日本降伏するまででした。
1945年8月15日、日本政府は無条件降伏を布告した時、ハルピン監獄を接收管理した関東軍は日本人を除てすべての中国人は監獄に入っていけないと云示命令をくだしました。
その時監獄に政治犯を千名余リ拘禁されました。接收管理した関東軍は拘禁された政治犯を釈放せよという命令を受けておかなかつたので政治犯を釈放する勇気かなかつたのです。ところがこれらの政治犯が暴動するのを恐れます。
そこで馬賊が監獄を奇襲攻撃をかけてくるという嘘を言って拘禁された政治犯を誘き出して脱獄させ、そして銃で射撃して殺され、死んだものは死んだが九死に一生を得たものに対して釈放の責任をとらないという悪巧みを企みました。
(その時牡丹江監獄はこのような手段で政治犯を全部銃殺したそうです)
8月15日の夜、関東軍は完全武装で監房の内外をパトロールしていました。その時監獄に浅野虎一郎という看守長がいました。彼は正義感を持っ日本の軍人でした。彼は中国の政治犯を思い遣っていて、監獄にいる日本人の中でも人望が頗る原かったのです。その時看守長の浅野さんは私たちに「も関東軍はあまたかたに包囲を突破させようとしたら、私があなたがなを出迎えに来ます。そして一歩でも離さないように私のあとにっいてください。」と教えてくれました。
8月16日の朝、浅野さんが山菜をとちにいくという口実で私たち9人を監獄の囲いの外の東側にある林の中に連てンってくれました。その時監獄の表入口に機関銃か4挺置いてあって火力網を組んでいて監獄中に殺意を起そうとしていました。浅野さんは「私は日本人の一人としてあなたがたを釈放します。今度の戦争は日本軍閥が挑発したのですが日本人民には罪がないんです。」と言いました。彼はこのお話しをしてからその廻りの守備を厳にする関東軍を見廻しながら、私たちをまた監獄の中へ連れてもどしました。いまのところではすぐに私たちを釈放することができないのを彼はおやんと知っているのに、なんとかしてこの監獄を脱出すなのを助けてあげようと言いました。
翌日、浅野さんが顔を出して関東軍にかけあいをして一人日本人として私たちを釈放あるしとにしました。もし日本政府かこの釈放の責任を追究したら一家の生命を持って保証すると竟いました。
みんな一斉に監獄を出ると目標が大きくて、関東軍が射殺する恐れがあるからそれぞれ2、3人しかこの監獄から出られませんでした。
私たちは、1942年のはじめから日本か降服したまで監獄の中で3年余りの苦難をなめ尽しました、私なちのような九死と一生を得た人人は肉体から精神まで残苦な
このため日本侵略軍の被害に見舞われた私たちは日本政府に被害賠償を500万円いただこうと要求します。
日本侵略者は中国の人民に塗炭の苦しみにおちいらせて何千万という罪かをい平及を殺したのです。これはいかなる賠償でとの損失を補うとができないと思います。
正義感を持っ日本人民が私たちの合理的要求に賛成してくれるだろうと思います。
道にかなえば助けか多く、道にそむけば助けが少ないという道理が正義の日本人はわかるだろうと思います。
どうもありがとうごさいました。
日本国が中国を侵略した時に被害者を受けた人

(原名)羅永年(いまの名前)羅平凡
199 年 月 日

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其他大屠杀(OM), 其它(OT)
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